蛸(たこ・タコ)のボイル・蒸しボイル加工品、キザミタコ(たこ焼き・タコ焼き)、取扱商品は「たこの唐揚げ」「たこの煮付け・桜煮」「たこめしの素」「たいめしの素」「烏賊(いか・イカ)」ならお任せ!

酢だこ

関東と関西では「酢だこ」のイメージが全く異なっています。

関東ではお正月に大きめタコ足を真っ赤に酢漬けにしたものであり昔から食べられ、正月の定番商品であります。

関西では、酢だこと言えば暖かい季節に、キュウリやわかめと合わせて三杯酢に合わせて食べる習慣があり、夏に食するものです。どちらかと言えば一般家庭料理で有ります。

味付けも多少異なり、酢の味が関東では酢の味が濃い目なのに対し、関西では砂糖などで若干甘目の味付けになっています。

ではその境目の地域はどうなのか?例えば中部地区は果たしてという問題が有ります。以前では関西寄りの味付けであった記憶がありますが、これだけ人の出入りが多い時代になって、食文化も変わってきているように思います。また調べてみたいと思います。

鉄道ファンからの投稿(その16)

 

第二次世界大戦後の黄金時代

 

 

 

1955年以後、日本は高度経済成長期に入った。経済活動は年を追って活発になり、国民の所得が増えた。ビジネス客や観光客が増え、大量の物資が国内を動くようになった。鉄道は増え続ける旅客や貨物を運ぶために輸送力の強化が続けられ、国鉄や私鉄には新型車両が次々と投入された。

東海道線の電車特急「こだま」は110 km/hの高速で東京-大阪間を6時間半で結んだ。「こだま」はスピードと快適性で人気を博したため、客車編成の「つばめ」と「はと」(東京-大阪7時間半)も1960年に電車化されて「こだま」の仲間入りをした。1958年に東京以北で最初の特急列車「はつかり」が蒸気機関車牽引の客車で走り始めたが、1960年に初のディーゼル特急キハ81系に切り替えられた。ディーゼル特急は翌年に改良型のキハ82系が特急「白鳥」として登場した。82系は非電化区間の花形として、四国以外の各地で特急列車として活躍した。私鉄では近畿日本鉄道が2階建て特急電車「ビスタカー」を増備し、小田急や名古屋鉄道では運転席を屋根上に設けて、乗客に前方展望を提供する「ロマンスカー」や「パノラマカー」をそれぞれ投入した。貨物列車は高速化の要求が強くなり、EF60形やその改良型であるEF65形では100km/h以上の速度での運転が可能であり、「たから号」や「とびうお号」などの特急貨物列車牽引のほかに寝台特急の牽引機にも充当された。

経済の発展につれて「より広い住まい」への要求が強まり、各地で鉄道会社と自治体がタイアップして大都市郊外に大規模な宅地が造成され(いわゆる「ニュータウン」)、アクセス手段として新線が建設された。この時期の特徴として、「鉄道会社によるプロ野球球団の運営」が上げられる。戦前からの老舗の阪神タイガースと阪急ブレーブスに続いて、国鉄スワローズ、近鉄バファローズ、南海ホークス、西鉄ライオンズが登場し、地域住民との一体化と乗客確保や社員の士気鼓舞に一定の役割を果たした。

国鉄では指定席を連結した優等列車が増え、従来の台帳と電話による座席指定システムが限界に達し、1960年にコンピューターによる座席指定システムマルス1が東京地区に導入された。最初は下りの第一こだまと第二こだまのみの対応であった。東海道新幹線の開業時の指定券は台帳方式であってかなりの混乱があったが、翌年(1965年)に新幹線もマルス対応となった。1965年に国鉄は指定券を取り扱う窓口を分離してみどりの窓口とした。1970年に座席指定業務はすべてコンピュータ化され、台帳作業は無くなった。

 

日曜日は雪?月曜日は?

先日のブログにも「寒波到来」とありましたが、この週末は、40年に一度と言われている。

超一級の寒気が南下してくるとニュースで報じられている。

上空1500mの気温が-6℃は、平地でも雪が降る目安とされているらしく、日本列島が

すっぽりと覆われる予報です。

子供たちは、雪・雪・雪。早く降って積もらないかなぁ、と楽しみにしているようですが・・・。

路面凍結・積雪の情報は、気になるところです。

状況によっては、月曜の朝から大混乱になる可能性もあり不安です。

今日は、土曜日。万全ではないにしても、備えたいですね。

 

赤い蛸

昨日テレビをみていると
大阪の黒門市場の歴史の話をしていた。

昔、堺などの遠方の魚を大阪の市場で売ろうと
したが売れず、今の黒門市場のあたりで
魚だけでなく、ゆでた蛸も売り始め
そこから、黒門市場が始まったらしいという
内容だった。
また、黒門市場は近くにあったお寺の山門が黒かった
ところから由来するとのこと。

青や黒っぽい魚の中で、赤いゆでた蛸はよりいっそう
おいしく見えただろう。

SMAPの解散騒動

私は長年SMAPのファンで、コンサートがある時には必ず行っています。
もうそろそろ,年齢も年齢なので解散もありかな・・・なんてことはあまり考えないようにしていましたが、
実際にそんな報道が出るとやはり気が気ではありませんでした。
新年早々、私の中に余計な心配事が一つ増えてしまいました。
しかし、世界中にこんなにも影響力があることを知って、改めてSMAPの凄さを実感しています。
経済効果も毎年、阪神や巨人が優勝した時ぐらいあるそうです。
たくさんの人がパワーを貰っているコンサートにまだまだ行きたいです。 テレビでも観たいです。
どうにか今回は騒動は収まった感じでなので、とりあえずホッとしています。(⁀‿⁀;)
出来る限りSMAPでいてくれることを願うばかりです♪♪

寒波到来

昨日から急に寒くなりました。

でも、ずっと暖かったのでやっと平年並みになったような気がします。

今日の朝は、車の上や道路の端に雪が少し積もっていた程度でした。

そういえば、中学校の頃までは雪が積もった日は1時間目はみんなで雪合戦をしたり、雪だるまを作ったり、遊んでいました。昔は冬の間は3,4回は雪が積もり、校庭で遊んでいたような気がします。

今は昔ほど、雪が積もらないですが、たまに雪が積もると、小さな雪だるまを作って玄関に並べています。そういえば、我が家の犬も雪が大好きでした。

寒いのは苦手ですが、冬も犬と一緒にと楽しもうと思います。

 

 

蛸壺

 隠れる場所とてない砂地の海底にて安全な隠れ家を求めるタコの習性を利用した蛸壺漁、かの有名な芭蕉の句「蛸壺や、はかなき夢を・・・」は実に名句であります。

 また、一人用の塹壕を「タコツボ」と呼びます。歩兵が隠れる為に掘った穴ですが陣地構築に十分な時間のない場合の急ごしらえ、これまた悲哀を感じます。

疾風に勁草を知る

困難に遭ってはじめてその人間の本当の価値、本当の強さが分かるという事。

 

困難がその人間の奥底に秘める意志や信念の堅固さを見分けるという事。

 

疾風は激しく吹く風のことで、勁草(けいそう)は強い草を意味する。

 

※風が吹くと強い草が見分けられるように、困難なときにこそ人の真価が

   分かるという意味。

鉄道ファンからの投稿

無煙化の時代(その15)

 

ディーゼルカーとディーゼル機関車の登場

 

当時未電化区間の旅客車は蒸気機関車が牽引していたが、乗客からは不快な煤煙に対する苦情が強くなってきた。特に勾配区間の長大トンネル内では、状況によっては機関士が窒息死することもあった。

 

DF50

そこで国鉄では、1975年までに蒸気機関車を廃止して他の動力に切り替える方針(動力近代化計画)を立て、これを「無煙化」と呼んだ。当時主要幹線は順次電化される予定であったが、亜幹線以下の路線の電化はコスト的に見合わないことから、無煙化の手段としてディーゼルカーとディーゼル機関車の導入が検討された。ローカル線用の気動車は戦前に少数の単機運転用ガソリンカーが製造されたが、戦争中の石油事情の悪化により使われなくなっていた。戦後再度使われ始めたが、減速機は歯車を運転士が手動で切り替える方式であった。この方式は2両以上を連結して運転する場合、各車に運転士を配置し汽笛等で合図しながら歯車を切り替える必要があり不便であった。複数の動力車をひとりの運転士で運転できる(総括制御)方式として、ディーゼルエンジンで発電機を回してモーター動力によって走行する電気式と、トルクコンバーター(液体変速機)で減速する液体式が比較検討され、コストや整備性の面で優れた液体式ディーゼルカーを採用することになった。実用化の第1号は1953年から製造されたローカル線用のキハ45000型(後のキハ17形)で、引き続き1956年に日光線の準急用としてキハ55系が作られた。液体式はその後日本のディーゼルカーの駆動方式として定着した。

 

ディーゼル機関車は戦前にドイツ製の小型機関車を輸入してテストした程度で実用化されていなかった。亜幹線の無煙化対策として試作的要素の強いDD50形(1953年)の後、DF50形が1957年から生産され始めた。両形式ともディーゼルエンジンで発電機を回し、その電力でモーターを駆動する電気式を採用。エンジンは国内で鉄道用大馬力エンジンの経験が無いため、ドイツの技術協力を得て日本のメーカーで生産したものを搭載した。これらの機関車は蒸気機関車と比べてパワーアップしたわけではなく、やや非力な存在であった。1962年から国産エンジン2基を搭載し液体変速機を採用した(強力な)DD51形が量産され、無煙化が進んだ。

 

交流電化

 

鉄道用モーターは回転速度や負荷の大きな変化に対応する必要があるため、直流モーターが適している。そこで鉄道で使用する電気は、電圧600 V – 1,500 Vの直流が採用されていた。

しかし一般の発電所から供給される電気は数万数十万Vの交流であるため、鉄道会社は一定区間毎に変電所を設置して電圧を下げ、直流に変換して使用している。電気の性質として、交流は電圧の変更が非常に容易であること、電気を送る際には電圧が高いほど大きな電力を送ることができること、送電の際の電力ロスは高電圧ほど少ないことがある。すなわち架線に高電圧の交流を流し、車上で使用電圧まで下げて使うことができれば、所要の変電所の数を減らすことが可能になる。交流電化は第二次世界大戦中にドイツで検討され、戦後その技術がフランスに引き継がれて実用化された。日本の国鉄でも将来の電化方式として交流電化を採用する方針が採られ、1955年から仙山線の北仙台駅と作並駅の間の実験線で試作電気機関車を使った実験を行った。この実験は成功し、1957年から始まった北陸本線の電化は交流60 Hz2 Vが採用され、電気機関車ED70形が生産された。この機関車は、車内で電圧を下げた後、整流器で直流に変換し、直流モーターを駆動させる方式であった。この後の国鉄は北海道、東北、北陸、九州地区を交流で電化し、新幹線も交流電化とした。

 

以来の自作浮き

20年前波止釣りに釣りにはまつていたころに、依頼して作っていもらった浮きです。

特徴は自立浮きの為おもりはBBとサル管と針以外は間に打たない。

高感度の浮き、餌が沈んでいく途中の当たりがとれる浮きと言うきゃちフレーズと折れにくいまた逆光でもよく見えると言うので作ってもらった浮きでーす。

それがこれ